焼肉屋さん、絶対に頼むものは?
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最近、毎日晩ごはんの献立に悩んでいる。
家に誰もいなくて、自分だけのために、わざわざ凝った料理、時間が掛かる料理を作る気力がないのである。
焼き肉の日なら、今日は焼き肉でいいや、ってこんな感じです。
「今日は何を食べたい?」という質問に対して「何でも良いよ」という返事は、献立を考える人に取っては、苦痛である。
いざ、用意が出来て、食卓に集まると「え~」とかこれじゃない感を出す。
「なんでも良い」と言ったにもかかわらずである。
仮に、1日3食、年間x365.25日で、92年生きたとしようか。
92年って随分アバウトな年齢だと思われるが、食事の回数が約10万回となる。
10万回の食事のすべてにバリエーションをつけようなんて考えたら大変で、好きなモノなら周期的に食べたくなるだろうし、嫌いなものは遠ざけるだろう。
新たなものにチャレンジしたいときもあるし、あの店のあれが食べたいというときもある。
もしくは、何も食べたくないという日もあるかもしれない。
生きるためには、食わないとならないわけで、水だけで生活するなんてことは不可能である。
ヴィーガンだとか、菜食主義者だとか、宗教的にあるものが食べられないとか、個々の考えは構わないが、他人に押し付けてはいけないし、ましてや子どもに押し付けるのもおかしな話しである。
宗教に難癖を付ける気はさらさらないのだが、野菜だけしか食べない自分は、他の肉を食べている人よりも、崇高であるかのような考えは改めるべきだろう。
私から言わせれば、完全菜食主義者であっても、野菜や果実を食べているわけで、草木も生き物であって、それを食べてるんだから、どんぐりの背比べであるということ。
いやいや、草木は生き物だけど、動物とは違うからという考えならば、この人の想像力はここまでなんだなということです。
いい加減、人間とは何らかの生物を食べないと生きてはいけないということに気がつくべきだろう。
なので、あれを食べてはいけない、これを食べてはいけないというのは、下等生物だから食べてよい、知的生物だから食べてはいけない、というのは人間のエゴでしかない。
と私は考えている。
ただ、間違っていけないのは、むやみに生物を殺していいと言っているわけではない。
つまり、生物から食物へと変えてしまったら、残さず食べるということである。
残さず食べるためには、嫌いなものもなんとか好きなもの、食べられるものにしていかなければならない。
それが料理である。
最近、毎日晩ごはんの献立に悩んでいる。
家に誰もいなくて、自分だけのために、わざわざ凝った料理、時間が掛かる料理を作る気力がないのである。
焼き肉の日なら、今日は焼き肉でいいや、ってこんな感じです。
「今日は何を食べたい?」という質問に対して「何でも良いよ」という返事は、献立を考える人に取っては、苦痛である。
いざ、用意が出来て、食卓に集まると「え~」とかこれじゃない感を出す。
「なんでも良い」と言ったにもかかわらずである。
仮に、1日3食、年間x365.25日で、92年生きたとしようか。
92年って随分アバウトな年齢だと思われるが、食事の回数が約10万回となる。
10万回の食事のすべてにバリエーションをつけようなんて考えたら大変で、好きなモノなら周期的に食べたくなるだろうし、嫌いなものは遠ざけるだろう。
新たなものにチャレンジしたいときもあるし、あの店のあれが食べたいというときもある。
もしくは、何も食べたくないという日もあるかもしれない。
生きるためには、食わないとならないわけで、水だけで生活するなんてことは不可能である。
ヴィーガンだとか、菜食主義者だとか、宗教的にあるものが食べられないとか、個々の考えは構わないが、他人に押し付けてはいけないし、ましてや子どもに押し付けるのもおかしな話しである。
宗教に難癖を付ける気はさらさらないのだが、野菜だけしか食べない自分は、他の肉を食べている人よりも、崇高であるかのような考えは改めるべきだろう。
私から言わせれば、完全菜食主義者であっても、野菜や果実を食べているわけで、草木も生き物であって、それを食べてるんだから、どんぐりの背比べであるということ。
いやいや、草木は生き物だけど、動物とは違うからという考えならば、この人の想像力はここまでなんだなということです。
いい加減、人間とは何らかの生物を食べないと生きてはいけないということに気がつくべきだろう。
なので、あれを食べてはいけない、これを食べてはいけないというのは、下等生物だから食べてよい、知的生物だから食べてはいけない、というのは人間のエゴでしかない。
と私は考えている。
ただ、間違っていけないのは、むやみに生物を殺していいと言っているわけではない。
つまり、生物から食物へと変えてしまったら、残さず食べるということである。
残さず食べるためには、嫌いなものもなんとか好きなもの、食べられるものにしていかなければならない。
それが料理である。