すべての楽曲の歌詞に共感できるなんてことはない。
むしろ共感できない歌詞のほうが多いのかもしれない。
それが、個々の楽曲の好き嫌いということで片付けて良いと思う。
他人にどうこう言われても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いであって良いのである。
ここを理解していないならば、この先を読まないほうが良いだろう。
特に、この365日の紙飛行機という楽曲が好きな人は、気分を害する可能性があるからね。
読んでしまったら、文句は無しでお願いします。
というわけで、好き嫌いではなくて、最近この曲が耳に入る機会が多く、どうしても歌詞を追ってしまう。
特に、サビはリフレインされやすい。
喩 えているわけですね。
いわゆる比喩表現 というものです。
紙飛行機は、手から解き放たれた瞬間から、自身が推進力を持つわけではなく、そこからは、風まかせ、運まかせである。
その風に上手く乗れれば、紙飛行機が持つポテンシャルもあるだろうが、飛距離も滞空時間も伸びることだろう。
しかし、その風は紙飛行機自体が起こすものではなくて、環境だったり、社会だったり、時代だったり、という紙飛行機を取り巻くものである。
なるほど、比較対象をいくつか用意し、どれが一番大切なのかを説いているわけですね。
どうも、ここに共感出来ない自分がいる。
距離を競うことは、どう飛んだか、どこを飛んだか、ということと比べると、それほど大切なことではないと説いている。
紙飛行機を人生に喩えているので、距離は寿命ということなのだろう。
長く生きることよりも、どう生きたか、どこを生きたか、ということのほうがが大切ということになる。
自分が長生きできるかということは、自分自身の日々の体調管理などもあるかもしれないが、どうにも出来ない部分もあるのは確かである。
それでも、どんな人生の経路を辿ろうと、長く生きた人は尊敬に値する。
それが悪人であろうともである。
そのどうにも出来ない部分は神のみぞ知るというところであり、歌詞の中では風なのだろう。
善人であっても悪人であっても、その部分は不変であるという考えが、私の中にあるのだろう。
では、紙飛行機が手から放たれる前はどうなのだろうか。
折り方も大切だろう。
どういう紙を使うのか、紙の大きさや形はどうなのか、どう折るのか、…
いびつな紙飛行機は、決して真っすぐは飛ばない。
当然飛ばし方も大切だろう。
飛ばすときの手の振り、角度、高さ、場所、その他もろもろはどうするのか、…
これらも人生だと思うんだよね。
つまり、紙飛行機が飛んでいる時だけが人生ではなくて、その前工程も人生なんだと私は考えている。
人生は紙飛行機の飛行経路のようなもの。ということであれば、
風によって、蛇行したり、上昇したり、下降したりしたり、いつまでも飛び続けることは出来ず、いずれは地面に落ちる。
これが人生の様ということの比喩であれば納得は出来る。
それでも、どう飛んで、どこを飛んだのかが、一番大切だという。
紙飛行機であるから、どこに向かって投げたのかも大事だろう。
その上で、どう飛んで、どこを飛んだのかということならば、これは大切なことだと思う。
どこに向かって投げたのかということは、自分の人生を掛けてでも全うする夢であり、その夢を叶えるがために、どう飛んで、どこを飛ぶのかということ。
そこを飛ぶために、紙飛行機を作る作業も大事なわけで、夢を叶えるために必要な紙飛行機のポテンシャルを高める作業が、紙飛行機を折る作業だろう。
それなのに、折り方を知らなくてもよくて、それでも飛ばせるようになってしまう。
うーん、やっぱり、共感出来ないなぁ。
当然、私の考えに共感出来なくてもいいわけですよ。
気にせず行こう。
むしろ共感できない歌詞のほうが多いのかもしれない。
それが、個々の楽曲の好き嫌いということで片付けて良いと思う。
他人にどうこう言われても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いであって良いのである。
ここを理解していないならば、この先を読まないほうが良いだろう。
特に、この365日の紙飛行機という楽曲が好きな人は、気分を害する可能性があるからね。
読んでしまったら、文句は無しでお願いします。
というわけで、好き嫌いではなくて、最近この曲が耳に入る機会が多く、どうしても歌詞を追ってしまう。
特に、サビはリフレインされやすい。
なるほど、人生を紙飛行機に人生 は紙飛行機 願 い乗 せて飛 んで行 くよ風 の中 を力 の限 り
ただ進 むだけ
いわゆる
紙飛行機は、手から解き放たれた瞬間から、自身が推進力を持つわけではなく、そこからは、風まかせ、運まかせである。
その風に上手く乗れれば、紙飛行機が持つポテンシャルもあるだろうが、飛距離も滞空時間も伸びることだろう。
しかし、その風は紙飛行機自体が起こすものではなくて、環境だったり、社会だったり、時代だったり、という紙飛行機を取り巻くものである。
その距離 を競 うより
どう飛 んだか、どこを飛 んだのか
それが一番 大切 なんだ
さあ心 のままに365日
なるほど、比較対象をいくつか用意し、どれが一番大切なのかを説いているわけですね。
どうも、ここに共感出来ない自分がいる。
距離を競うことは、どう飛んだか、どこを飛んだか、ということと比べると、それほど大切なことではないと説いている。
紙飛行機を人生に喩えているので、距離は寿命ということなのだろう。
長く生きることよりも、どう生きたか、どこを生きたか、ということのほうがが大切ということになる。
自分が長生きできるかということは、自分自身の日々の体調管理などもあるかもしれないが、どうにも出来ない部分もあるのは確かである。
それでも、どんな人生の経路を辿ろうと、長く生きた人は尊敬に値する。
それが悪人であろうともである。
そのどうにも出来ない部分は神のみぞ知るというところであり、歌詞の中では風なのだろう。
善人であっても悪人であっても、その部分は不変であるという考えが、私の中にあるのだろう。
では、紙飛行機が手から放たれる前はどうなのだろうか。
折 り方 を知 らなくても
いつのまにか飛 ばせるようになる
それが希望 、推進力 だ
ああ、楽 しくやろう365日
折り方も大切だろう。
どういう紙を使うのか、紙の大きさや形はどうなのか、どう折るのか、…
いびつな紙飛行機は、決して真っすぐは飛ばない。
当然飛ばし方も大切だろう。
飛ばすときの手の振り、角度、高さ、場所、その他もろもろはどうするのか、…
これらも人生だと思うんだよね。
つまり、紙飛行機が飛んでいる時だけが人生ではなくて、その前工程も人生なんだと私は考えている。
人生は紙飛行機の飛行経路のようなもの。ということであれば、
風によって、蛇行したり、上昇したり、下降したりしたり、いつまでも飛び続けることは出来ず、いずれは地面に落ちる。
これが人生の様ということの比喩であれば納得は出来る。
それでも、どう飛んで、どこを飛んだのかが、一番大切だという。
紙飛行機であるから、どこに向かって投げたのかも大事だろう。
その上で、どう飛んで、どこを飛んだのかということならば、これは大切なことだと思う。
どこに向かって投げたのかということは、自分の人生を掛けてでも全うする夢であり、その夢を叶えるがために、どう飛んで、どこを飛ぶのかということ。
そこを飛ぶために、紙飛行機を作る作業も大事なわけで、夢を叶えるために必要な紙飛行機のポテンシャルを高める作業が、紙飛行機を折る作業だろう。
それなのに、折り方を知らなくてもよくて、それでも飛ばせるようになってしまう。
うーん、やっぱり、共感出来ないなぁ。
当然、私の考えに共感出来なくてもいいわけですよ。
気にせず行こう。