日本人は不思議である。
と、外国人から言われる。
特に宗教観について、ハロウィンでは仮装を楽しみ、クリスマスを祝い、大晦日は年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞き、元旦は神社で参拝し、節分には豆を巻き、バレンタインデーにはチョコレートを送る。
日本人は特定の宗教の教徒であると断言する人は少ない。
無神教かと言えば、そうとは言い難い。
私が考える日本人の宗教観をつらつらと書いてみようかと思う。
まず、自分自身がこの世に生を受けているという事実、この絶対的な事実に感謝する。
自分自身の境遇や環境がどうであれ、自分が生まれているということは、両親及びご先祖様の存在が無ければ有り得ないという事実を理解し、両親やご先祖様に感謝する。
自分自身、両親、ご先祖様を生かしてくれている土地の存在と、その土地を護る鎮守様に感謝する。
生あるものを食べなければ生きていけないという事実を理解し、食べ物に感謝する。
食事の前に「いただきます」と、その生あるものを奪ってまで生きながらえることに敬意を払い感謝する。
食事の後に「ごちそうさま」と、その生あるものを私に与えてくれたすべての人々や物々や事々に感謝する。
今日一日が平穏無事に過ごせたと感謝し眠る。
目が覚め新たな一日を迎えることが出来たことに感謝する。
つまるところ、日々是感謝の連続である。
その連続の中で、特定の日に執り行われる行事に貪欲に参加するのである。
それが例え異教的な文化であろうと、楽しめると思えるものならば、とことんまで楽しむ。
日本は地理的地形的に災害の多い国である。
八百万の神々、つまりはいかなるものにも神は宿る。
人間という一面からみたら、善い神も、悪い神も存在する。
例え自然災害に見舞われようと、その土地が今まで自分自身やご先祖様を生かしてくれていたという事実に変わりはない。
感謝することはあっても、恨んだり憎んでもなにも変わらない。
むしろ恨みや憎しみは、連鎖し、拡大して、回りの人間をも不幸にしていく。
自分自身が生きているならば、恨みや憎しみの連鎖は自分自身の中で留めるか許すかし、場合によっては墓まで持っていき、子孫には痼を残さず断ち切るものだと考える。
神道は宗教というが、私は宗教ではないと考える。
宗教は教えであるが、神道は道である。
宗教には開祖がおり、何らかの教えを与えているが、神道に開祖はいない。
当然、開祖からの教えなるものも存在しない。
あるとすれば大自然とともに生きてきた身近にいる先人の教えである。
道とは、自身の歩むべき道であり、なんらかの分岐点に立った時の道標であり、どちらの道を行くのかは自分自身の判断に委ねられているのであり、宗教の教えに従って道を選ぶわけではない。
教えを与えてくれるのは親であったり、兄弟であったり、先生であったり、先輩であったり、友人であったり、見ず知らずの他人であったり、年齢の上下はいざしらず、人間である必要すらない。
その教えを自分自身がどう解釈するのか。
当然、悪い意味で自分に都合の良い解釈も出来てしまう。
それを選択するのも、やはり自分自身であって、他人ではない。
こういった判断は冷静でなければ出来ず、興奮していては道を誤ってしまうこともあるだろう。
日本人が自然災害などの局面において、冷静に事を運ぶ姿をみるに、こういうことなんだろうと思う。
人生は選択の連続である。
選択するのは自分自身の自由だが、自分自身が存在するという事実は変わらない。
やはり、日々是感謝なのだろう。
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日本人の宗教観
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