さて、親父を同窓会に送り出してからは、一人での散策となる。
日没までの数時間でやらなければいけないこと。
それは、先祖代々のお墓の位置を正確に記憶すること。
十数年前の記憶を便りにちょっとした坂を登る。
足の不自由な親父を連れては行けない理由がここにある。
※2014/06/28撮影 法玄寺からNTT気仙沼の電波塔を望む
方角的には真南を向いており、左下に気仙沼湾があることになります。
写真からもわかるとは思いますが、かなりの高台にあります。
実は、この場所に辿り着くまで、様々なルートで山を昇り降りしたんです。
親父と散策していたときに、お墓にいくルートが2本あることは聞いていて、私の記憶にある勾配が少ないほうから行ってみました。
金港館という旅館、男山酒造の
のぼりきったところに、法玄寺専用駐車場の看板があります。
ここから、右手にあるお墓を片っ端から確認したが、親戚のお墓は見つかるも、実家のお墓が一向に見つからず、時計回りにぐるっと一周して戻ってきた。
母親に連絡すると、母親いわく、大鍋屋の脇の道からのぼって、法玄寺にでて、そこから水子地蔵へ行って、下って云々。
私も、事前にグーグルマップで法玄寺の位置は調べてはいたのだが、これが一向に見つからないのである。
よくよく考えたら、スマホのGPS使えばよかったのかな。
山登りで疲れてて頭がまわらなかったようだw。
母親のいうルートをたどるため、一旦下山して、今度は大鍋屋の脇の道からトライする。
大鍋屋の脇のある程度の幅のある道から、気仙沼女子校のテニスコート脇の細い小道をのぼっていく。
すると、先ほど散々探し回ったところに出る。
お手上げだな、誰かにお寺までの道を聞こうと思って、声を掛けたところ、なんと法玄寺の住職さんでした。
なんてことはないのです。
私がなぜだか避けていた、朱色の手すりのある石段の上に法玄寺はありました。
朱色の鉄柵は写真にも写っていますね。
住職とお話をしながら、後を着いていくと、母親のいう水子地蔵もあり、下るという表現の意味もわかり、私の記憶にある景色がみえてきました。
昔はもっと土の上を歩いたような気がしたが、舗装してあったり、砂利が敷いてあったり、専用駐車場からならば、足の不自由な親父を連れて、どうにか行けるであろうことを確認できた。
予め買っておいた缶ビール(本当は、ワンカップみたいなのが欲しかったのだが、震災前にあったコンビニとかはなかったので、自販機の缶ビールとなりました。
水汲み用のお徳用焼酎のペットボトルがあったので、水を汲みにお寺へ行くも、水道はなく、御手水にすら水がなかった。
専用駐車場の上にあったお墓の入り口には、水道があったので、そこまで戻り、ペットボトルいっぱいに水を汲み、かもめの糞で汚れたと思われるところを洗い流しておきました。
私の面識のある、祖父、祖母、伯母、伯父、面識はないが曽祖父、曾祖母の名前も刻んである。
みな長寿であるのだが、中には3歳なくなった方も刻まれていた。
お墓も掃除でき、お参りも済ませたので、お寺で浄財し、ホテルへ戻る。
親父が部屋に戻ってくるのを待ち、その後、1Fの気仙沼温泉で疲れを癒やし、就寝した。
翌日29日は朝から雨で、一向に止む気配はない。
5時前に目が覚めるも、朝食は6:45から。
和食の多いバイキングスタイルでしたが、祖母がよく作ってくれた懐かしい食べ物がありました。
それは、しそ巻き。
甘辛い味噌(仙台味噌に砂糖と味醂かな)を青じそで巻いて、油で揚げて、数時間掛けて油を切って冷たく冷やしたお惣菜です。
本当に懐かしい味でした。
10時前にホテルをチェックアウトし、雨の中、タクシーで魚市場へ向かってもらうも、昔はあそこでおみやげを買えただが、今はそんなのないと解り、そのまま法玄寺の専用駐車場まで行ってもらう。
トランクに入れてもらった荷物を物質ではないが、そこで一旦精算して、運転手さんに10分程度待っててもらうことをお願いしたら、快く受けていただき、雨の中、足場が悪く滑りそうなところもあったが、親父の念願だった墓参りをすることが出来ました。
つづく
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気仙沼紀行 その5 お墓参り編
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