先日、夕食中に家族で昔話に花が咲いた。
母親は、いつの間にか70歳になっていた。
誕生日は1月なのに、なんでかというと、実際に生まれた日は12月15日だということは、家族の誰もが知っている事実である。
母が生まれる当時、戦後まもなくというころ、おそらくは父母(私から見て祖父母)は、12月生まれの赤ん坊に、生まれた時に1歳、1月1日で2歳と、わずか2週間足らずで歳をとってしまうことを不憫に感じてか、役所には1月2日生まれと届け出たものと思われる。
数え年が主流だったころは、こういうことは頻繁にあって、現に母親の一つ上の姉も、12月生まれだったのを、まさかの母と同じ1月2日生まれにしたそうな。
そんなこんなで、母の誕生日はまだ先なのに、70歳になっていたということです。
話は弾み、私の七五三、弟の入退院、妹を出産、伯父の死、祖父の死、実家の火事、という私の記憶が一番曖昧な時期のころの話題になる。
これが、母の話と、私の記憶とが、ぜんぜん合致しないのである。
空脳なのかな?
私は理学部数学科出身なので、理的に検証してみることとする。
まずは、間違いのない事実を確定する。
妹の誕生日は昭和48年9月24日。
これは、間違いようのない事実であり、数え年とかで誕生日をずらしたりはしていない。
伯父の死は昭和48年8月3日。
これは、母のお腹が大きかった時に、伯父がなくなっているという記憶が私にも父にも母にもあるから、これも間違いようがない。
私の七五三が満5歳の11月15日に執り行われたとすると、昭和43年7月22日生まれの私が満5歳の七五三は、昭和48年11月15日となり、幼稚園年少組である。
母の記憶では、私の七五三があるからと、弟の退院を早めたと言っていた。
弟の誕生日は昭和45年3月3日なので、私とは学年的には年子だが、七五三のときはまだ3歳8ヶ月のころに退院していることになる。
つまり、幼稚園入園前ということ。
妹はまだ2ヶ月にも満たない乳飲み子である。
私の記憶では、幼稚園の年少組(きく組)は皆勤賞を貰い、年長組(はと組)では2日ばかり休んで皆勤賞をもらえなかったという記憶がある。
この休んだとされるのは、弟の入退院と関係していたという記憶があるのだ。
弟の入退院が私が年少組のころだとすると、幼稚園を休まずに、私を送り迎えして、弟の入院先(江古田駅からタクシー)まで、毎日通ったのだろうか?
母曰く、弟が入院していたころ、私を幼稚園に送り迎えしていたのは、伯母か従兄であるという。
仮に、そうだとするならば、伯父が亡くなる前後数ヶ月のことになる。
伯父が亡くなる前ならば、伯父もがんで入院していて、伯母や従兄が私の幼稚園の送り迎えなど出来る状態ではないだろうし、伯父が亡くなった後だとしても、伯母や従兄にそんな余裕があったとは到底思えない。
仮に、年少組4歳か5歳の私を従兄が送り迎えしていたとする。
従兄は私の6個上なので、小学校5年生となる。
小学校高学年ともなれば、授業は6時間目まであり、下校時刻は15:00近かったことだろう。
椎名町駅から各駅停車で大泉学園駅までは、当時であれば25分か30分くらい掛かっていたのではないだろうか。
また、大泉学園駅から幼稚園までを徒歩で30分だとして、電車の待ち時間などを考慮してもトータル1時間はかかったことだろう。
私を迎えにきた従兄が、私の家までいって、私の両親が帰ってくるまで待っていたとすると、父の職場である池袋の店は、閉店時間は19時で、お客が待っていれば、当然すべてのお客が終わるまでは帰ることは出来ない。
もしかしたら、弟が入院していることもあって、他の従業員に施錠をまかせて、早引けしていたかもしれない。
それにしても、両親のどちらかが帰ってくるのは、私や従兄の晩ごはんも考えると無理がある。
そうなると、従兄は私を連れて、椎名町の家に帰ったのだろうか?
幼稚園児の私を30分以上歩かせて駅まで行くか、バスで駅まで向かったかは解らないが、椎名町の家まで早くても1時間はかかる。
つまり、従兄の下校時刻から2時間後の17:00に椎名町の家に帰ったとする。
これなら、結構辻褄が合う。
乳飲み子の妹は母から離すことは考えにくい。
入院中の弟もまだまだ3歳数ヶ月で、ひとりぼっちで病院のベッドで食事というわけにもいかないだろうから、朝から晩まで母親が付きっきりで世話したであろう。
弟が寝静まってから、自宅か、椎名町の家に帰宅し、洗濯などをして、翌朝早くに、弟が起きるころには病院に居たのではないだろうか。
迎えは、誰かが行けばよかっただろうけど、送りはどうだろうか。
幼稚園の始まる時間までに、電車を乗り継いだり、駅から歩くかバスでなんてやってたら、大変だろう。
つまり、迎えは出来ても、送りは出来る人が居ないのである。
そう考えると、年少組での皆勤賞は私の記憶違いで、年少組で休んで、年長組が皆勤賞だったのかもしれない。
当時は携帯電話なんで影も形もなかったような時代である。
ある程度の時間を決めて、親類縁者連携を取って行動していただろうことは容易に推測できる。
伯父が亡くなり、伯母は収入を得るために、家をアパートに改築する。
この改築前の間取り図を、私は正確なまでに完全に記憶しているのである。
それはすなわち、私は長い間、椎名町の家に居たという証拠でもある。
今度、椎名町の家に行った時にでも聞いてみるかな。
70になった母(末っ子)の姉(長女)であるから、伯母の記憶ではどうなんだろうか?
従兄の記憶のほうが確かかもしれないな。
さて、もう一つの祖父の死と実家の火事である。
この前、気仙沼に行った時に、お墓参りをして、しっかりと命日を調べてきていました。
昭和51年12月23日、つまり今日が命日なんです。
私は小学校2年生で8歳、弟は小学校1年生で6歳、妹は3歳3ヶ月。
祖父が亡くなる数日前、冬休み中だと思うが、母と私と弟と妹の4人で、上野駅から特急やまびことかで行って、祖父の入院先の病院まで行ったと思う。
そして、家に帰って、数日後に亡くなって、すぐにとんぼ返りして、お葬式だったと記憶している。
葬式の時、実家に泊まれる人数は限られており、小学生だった私と弟は、南気仙沼の親戚の家で一晩を過ごした。
そんな時に、実家が火事になり、乳飲み子の妹を抱え、母は脱出したらしい。
他にも、叔母にも、妹と同学年の従弟、更にその弟が居たことが、正確な日付から解った。
出火元は葬儀のロウソクで、葬式に集まった人たちは、実家の1階(当時はパチンコ屋だったと思う)で、麻雀とかをやってたらしい。
幸い、消防団だか消防士の人が居たらしく、天井に1箇所穴を開けただけの被害で済んだのは幸いだ。
もし、手のかかる私や弟まで居たとしたら、なんて考えると、ちょっと寒気がする。
昭和51年12月23日、享年76歳で亡くなった祖父。
よくよく考えると、今の父が丁度76歳で、来年の1月31日で77歳になる。
気仙沼のお墓に眠る父方のご先祖様が、ちょっとは思い出せと、私たちに伝えたのではないだろうか。
そんな気がしてならない。
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幼少期の曖昧な記憶を辿る
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