魚を欲している人に、魚をただ与えるのではなく、魚の釣り方を教えるべき。とかよく言われるが、なんか納得出来ない自分がいる。
別に魚を釣ることだけが、魚を得る唯一の方法ではなかろうに。
教える側が釣りしか魚を得る方法を知らないのかもしれないが、投網でもいいかもしれないし、お金を持ってれば購入すればいいだけかもしれない。
どうすれば魚を得ることが出来るかを考えさせる事が重要だろう。
法に触れない幾つかの方法を見つけて、自分が出来そうだと思うものからやってみるのがよいのではないだろうか?
そもそも、
なぜ魚を欲しているのだろうか?
どんな魚を欲しているのだろうか?
もしかしたら、魚である必要すらないかもしれない。
つまりは、他人の力を借りる前に、自分の中で整理すらできていないかもしれない。
その魚を欲している人を尊重し、自分の中で考えに考えぬいた結論だとするならば、
ただ単に魚を欲している人には、やはりただ単に魚を与えればよい。
魚の釣り方を知りたい人には、魚の釣り方を教えればよい。
当然、なんかしらのそれ相応の対価を要求するだろうけどね。
と考える。
なぜなら、「魚が欲しい」から「魚をくれそうな人」に聞いてみるとしか見いだせなかった人に、「魚の釣り方」を教えたとしても、魚が釣れなければ、今度は「なんで釣れないのか」と聞きに来ることだろう。
自分で考えない人は、いつまでも自分で考えないだろう。
魚を欲している猫に魚の釣り方を教えても意味が無い。
本当に魚を欲している猫は、釣り人の近くに甘えた声で擦り寄ってくる。
その行動が釣り人に受け入れられれば魚を得られるかもしれないし、猫として取り得る最善の方法ではないだろうか。
まぁ、それが人間として取る正しい答えかどうかは別だけどね。
人間は一茎の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。やっぱり、人間たるもの考えないとだめだよね。
だが、それは考える葦である。
L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.
魚が欲しい人も、安易に魚を与えようとした人も、釣りを教えた人も、考えた末の結論ならば、それはそれで良いのではないだろうか。
と結論を出せばいいってものでもないんだよね。
安易に結論を出すことが問題である。
結論なんて、そんなに簡単に出せないよね。