今回は、
これに切り込んでみようかと思う。
出席簿を男女混合にしたり、男女別にしたり、まぁ、疑問に思うのは構わないが、疑問視するならば、もっと徹底的に考えてみてからにして欲しいというか、するべきだろう。
まず、順番ってなんだ?
五十音順とか、背の順とか、成績順とか、クラス順とか、学校に行っていたころにはいろいろあっただろう。
性に関して多感な時期が、まさに学生時代であり、男女別にしておくことによるメリットも感じていたはずだろう。
例えば、小学校であれば体育の授業は男女一緒だったが、中学になると男女別になる。
差別?区別?
苗字なんて、そうそう変えられるものでもないのに、五十音順で並べられることに、差別は無いとでも思っているのだろうか?
相原さんは先で、渡辺さんは後って、これも差別といえば差別である。
背の順にだって差別はある。
背の低いことをコンプレックスに思う人もいれば、背が高いことをコンプレックスに思う人もいる。
だけどさ、そんなことを言っていたら、どんな並べ方にしたところで、差別になってしまうんだよ。
だけどね、そこには何らかの配慮や効率などがあって、そうしているのですよ。
体育の授業で男女別にするのだって、体操着や水着に着替える必要があるわけで、同じ教室で着替えさせることのほうが問題が大きいだろうし、一緒にってのも問題がある場合もあるだろう。
背の低い人の前に背の高い人がいたら、それはそれで配慮に欠けているだろう。
そういう配慮は無視して、あたかもそこに問題があって改善しなきゃいけないかのように問題視するってのが問題なんだと思う。
男女混合の出席簿にしたところで、相原さんと渡辺さんの差別が消えるわけではない。
最近の出来事だから、思い出して欲しい。
2020東京オリンピックの入場行進。
日本での開催ということで、各国の名前を五十音順にして入場行進をしました。
最初の3組、
ギリシャ、難民選手団、ロシアオリンピック委員会
最後の3組
アメリカ合衆国(2028年開催国)、フランス(2024年開催国)、日本
これらを除いたところで、
アイスランド、アイルランド、アゼルバイジャン、…、ルワンダ、レソト、レバノン
と五十音順でした。
諸外国からしたら、なんだこれって思われていたことだろうが、日本は日本語が公用語であって、五十音という音が使われていて、それにはアルファベット同様に順番があって、ということが知れ渡ることは、決して悪いことではないだろう。
アルファベットが世界共通語とかっていうのも、差別的だと思いませんか?
アルファベットは26文字しかないし、英語は簡単だからというような理由で語られますけれども、英語圏の人間が日本語が理解しにくいように、日本人は英語を理解しにくいんですよ。
それでも、日本ではアルファベットの大文字、小文字、ブロック体、筆記体までを習うし、アルファベット順は日本人でも理解しています。
実は英語圏では筆記体は読めるけど書けない人が多いようですよ。
つまり、筆記体を教えないし習わないってことです。
これは私の従弟にアメリカ人がいて、彼らは筆記体を書けなかったので、習っていないことは知っていました。
まぁ、日本だって楷書体は習うけど、草書体は読めない人がほとんどなので、同じことだと思う。
話しを戻して、五十音順を理解している国や人は、いったいどれだけいるというのだろうか。
例えば、人口別に見たら、英語は12億6800万人、北京語は11億2000万人と、1位と2位の差はそこまで開いていないですよね。
さて、北京オリンピックでの入場行進の順番の基準は何だったか知っていますか?
ギリシャと開催国の中国を除いて、簡体字による標準漢字表記した際の1文字目の画数でした。
几内亚(ギニア)、几内亚比绍(ギニアビサウ)、土耳其(トルコ)、…、摩洛哥(モロッコ)、澳大利亚(オーストリア)、赞比亚(ザンビア)
漢字の画数、それも簡体字ですよ。
これを瞬時に理解できる中国以外の国があるとしたら、漢字圏の日本くらいで、よくて韓国、ベトナム、といったところくらいがギリギリではなかろうか。
そもそも各国は、自分の国がどのような漢字で表記されているのか、国民に周知させたりってしてないと思うわけで、北京語は11億2000万人も使われているから、英語とそこまで差異はないけど、英語圏から見たら、東京オリンピックも、北京オリンピックも、どちらの行進順においても、疑問符だらけだったことだろう。
日本人にとって、五十音順てのは、馴染みがあるわけで、そこに差別はないと思っている事自体が間違いで、差別はあるんですよ。
だって、何らかの基準を設けて、そこになんらかの差を見出して、順列を付けるわけですから、何順にしたところで、差で順序を付けている以上、そこに差別はあるのです。
つまり、英語圏の人たちからすると、この順番はカオス(混沌)にみえて、おそらくランダムに近いと認識されたことだろうで、寧ろ平等に見えたかもしれない。
男女別にしようが、混合しようが、そこに差異があるから分けるわけです。
言葉は悪いかもしれないが、男性器の有無、女性期の有無、もしくは染色体の違いで分けている。
LGBTQ…だの言い出すとキリがない、性別と性癖は別だと私は考えている。
性癖のために、トイレや風呂を別々にするとか、考えたらキリがない。
だけど、性別ごとに別々にする必要性があることは理解出来るだろう。
男性器をぶら下げていても心は女性なのでって女湯に入ってこられたら、女性は許せるのですかね。
身も心も女性ですが、女性が好きなので、女湯最高!ってのはどうですか?
前者は間違いなく大事になりますけど、後者はそこまで問題にならないですよね。
これは性別と性癖(性的指向・性的嗜好・性的志向)の違いによるものだということです。
性癖は隠している分には自由だが、隠さず公にしたら、場合のよっては犯罪になりますので、その違いは認識するべきでしょう。
教育を受ける権利ということにおいて、現時点での国公立の小中学校であれば、権利を阻害したりはしていないでしょう。
現時点でと書いたのには、我々世代は、中学校で男は技術、女は家庭科と男女別習/男女別修であったからです。
性別として男であること、女であることを理解することも教育ですよね。
平等を教えるだけでなく、公平、公正も教えるのが教育ですよね。
男だから女を守れとか、女だから家庭を守れってのは、それは日本の伝統的な役割分担のようなものであって、教育ではなくて、どちらかといえばエゴですよね。
女子だって技術の授業を受けたい、男子だって家庭科の授業を受けたい、って思うことはあっても、受けられない時代があったわけで、今は男女共習/男女共修になっている。
保健体育も男女共習化を進めているようだが、これは別習で良さそうなのに、なんで共習にしようとするのだろうか。
別習だと、男士は武道、女子はダンスというような別のことをするということは問題だと思うが、別習が悪いとは思わない。
それは、共習にすれば、男士は武道、女子はダンスのようにはならないのだけれども、そういうことじゃないんだよね。
男子だってダンスをやりたい人もいれば、女子だって武道をやりたい人もいるって話しであって、なんでもかんでも共習ってのはとは違う。
またオリンピックになってしまうが、男女混合はあっても、男vs女とかは無いですよね。
それは、明らかな力の差異があるからに他ならなくて、男女差が少ないものもあれば、大きく差があるものもあるということ。
わかり易い例を上げるとすると、柔道とかの体重別にするのと同じことです。
一応、私は柔道経験者であり有段者です。
体重が軽い人が、絶対的に重い人に勝てないとは言わないけれども、明らかに体重別で戦い方が変わってくるのは事実です。
軽いもの同士であれば、かなり動きの速い動き回る試合展開となるだろうが、重いもの同士では地に足をつけてあまり動き回らない試合展開となる。
もし、柔道経験者であれば、軽いなら軽いなりの戦い方をすることも出来なくはないが、圧倒的な体格差のある試合結果で、体育の教科の優劣を付けるということでは、それはもう教育ではないと思うわけです。
それでも、体育の授業では、男子は1500m、女子は1000mとか、持久走の距離が違ったりとかもありますよね。
例えば、音楽の授業で合唱があったとすると、音域によって女性はソプラノ、メゾソプラノ、アルト、男性はテノール、バリトン、バスといったように分けたりして、それぞれのグループ別に練習したりすることだってあるが、上を歌いたいとか、下を歌いたいという希望を叶えることが出来ない場合もあるだろう。
出席簿が男女混合でも良いのだが、男女別習の授業があったり、男女別の健康診断とかがあるわけで、そういうのを考慮したら、男女別の出席簿というのはそこまで悪いことには思えない。
男が先、女が後、というのも、相原さんが先、渡辺さんが後、ということと同じ話しです。
だけど、五十音順を逆順でってのは滅多に見ることはないが、女が先、男が後ってのは、容易に出来るが、五十音順を逆順でとなると、なかなか難しいだろう。
そもそも先が良くて、後が悪いって考えも、考え直したほうがいい。
例えば、英語の授業では、下の名前(first name/given name)のアルファベット順で出席を取っても良いわけである。
例えば、古典の授業では、いろは順でも良いわけである。
出席簿の男女別を問題視して、男女混合を推進したいのであれば、もっと徹底的に事例を上げて、メリット、デメリットを明確に示す必要があるだろう。
また、平等と公平とを履き違えないようにしなければならない。
皆さんは、どのように感じ、考えましたか?
ではでは