中野区民、練馬区民、近隣のお住まいの方、お勤めの方、
西武池袋線沿線、都営大江戸線沿線、をご利用の方、
であれば聞いたことがあるかとは思います。
特に難読地名というわけではないのですが、
江古田
を何と読みますか?
中野区の地名、街道、都営大江戸線新江古田駅では、「えごた」と読みます。
江古田通り(Egota-dori)
都営大江戸線新江古田駅(Shin-egota)
練馬区の地名、街道、西武池袋線江古田駅では、「えこだ」と読みます。
江古田通り(Ekoda-dori)
西武池袋線江古田駅
江古田通りは顕著ですよね。
目白通りと交わる江原二丁目交差点で二分されます。
実は、
都営大江戸線の新江古田駅のある地名は中野区江原町、
西武池袋線江古田駅のある地名は練馬区旭町、
どちらも江古田という地名にはありません。
現在の江古田駅、新江古田駅周辺の地図と、明治・大正の頃の地図と重ねてみます。
※マウスを当てると明治・大正の地図、マウスを外すと令和の地図となります。
※明治・大正の地図の文字は右から左へ書かれています。
これが理系男子の為せる技?
西武池袋線江古田駅周辺及び旭丘は、明治・大正の頃は江古田新田、
都営大江戸線新江古田駅周辺及び江原町は、明治・大正の頃は江古田、
更に、左側に江古田原の文字が確認出来ます。
千川通り(左上から右下への線路と並行な道)、江古田通り(右下から右上への道)は、明治・大正の地図でも確認できる。
西武池袋線は武蔵野鉄道ですので、1915年(大正4年)に池袋・飯能間を開業しています。
江古田駅の開業は、1922年(大正11年)、旧制武蔵高等学校(現在の地図の武蔵大)の設立に合わせて、武蔵高等学校仮停留所として開業している。
まだ江古田駅は無かった時代ということですね。
つまり、明治、大正、昭和の初め頃まで遡れば、どちらのエリアも江古田という地名であったということは確認出来ました。
練馬区が江古田新田であるから、本家の中野区の江古田に対して、混乱を避けるために、同じ読みを付けたくなかったというのは、十分にあるかと思います。
もう少し歴史的な話しをすると、古くは「江古田・沼袋の戦い」で、文明9年4月13日(西暦1477年5月25日)の出来事で登場していますので、日本史、戦国史、歴史好きなら知っているかもしれません。
つまり、江古田という地名は、どんなに浅く見積もっても500年以上前、室町時代には既に存在していた地名だということは確かなようです。
私自身がこの問題におそらく最初に触れたのは、田無町、現在のひばりヶ丘に住んでいた母方の大叔父の家族、椎名町の母方の伯母の家族、それぞれが江古田を「えごた」と呼んでいたのが始まりです。
方言の可能性も否めませんので、母方の実家は新潟県です。
西武池袋線の江古田駅は「えこだ/エコダ/ekoda」なのに、地名は「えごた/エゴタ/egota」なんだ。
不思議だなぁ。と子ども心に感じておりました。
(大江戸線が開通するのは私が社会人になってからです。)
私は理系男子なので、物事を理詰めに考えがちです。
今回の江古田の地名問題を、どのような方向から攻めて、どのように切り込んで、攻略していくのがよいのだろうか。
とりあえず考え得る事例を、最小公倍数的に集められるだけ集めてみる。
兎にも角にも話しはそこからだ。
地名と駅名が清音、濁音の違うものを探してみた。
滋賀県のJR米原駅(1889年開業)は、駅名は「まいばら」だが、地名は「まいばらしまいはら」
愛知県のJR幸田駅(1908年開業)は、駅名は「こうだ」だが、地名は「こうた」
東京都のJR尾久駅(1929年開業)は、駅名は「おく」だが、地名は「おぐ」
茨城県のJR小田林駅(1955年開業)は、駅名は「おたばやし」だが、地名は「おだばやし」
なぜかは解らないが、地名に登場する濁音を、駅名では最初の濁音を清音にしているように思われる。
JRですから、駅が出来た当時はいずれも国鉄、日本国有鉄道です。
何かしらのルールがあったと考えるのが妥当でしょうか。
武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と都営大江戸線なので、国鉄ではありませんが、
国鉄の幹線と支線において、
幹線が先に出来て現在の地名を駅名に付け、
支線が後に出来て既に幹線で駅名が使われているため、
混乱を避けるために古い地名を駅名に付けるという事は、往々にしてあるようです。
このルールに当てはめると、「えこだ」は昨今の読み、「えごた」は古い読み、ということでしょうか?
もっとメジャーな駅がありましたね。
東京都のJR秋葉原駅(1890年開業)です。
駅名は「あきはばら」ですが、江戸時代火事が多く、火除の神様として秋葉大権現(あきばだいごんげん)を祀った秋葉神社(あきばじんじゃ)を建て、火事で焼け野原になった地を秋葉原(あきばのはら)と名付けたわけです。
このくらい歴史研究がなされていれば理解が速いのだ。
さて、江古田に話しは戻るが、江古田・沼袋の戦いの歴史研究から、江古田原と呼ばれていた説が高くなっている。
というか、先の明治・大正の地図に江古田原の文字がありましたね。
では、江古田原は何と呼ばれていたんだろうか。
まずは順当に漢字の読みを調べる。
江:
音読み:コウ
訓読み:え
古:
音読み:コ
訓読み:ふる(い)、ふる(す)、いにしえ
田:
音読み:デン
訓読み:た、か(り)、か(る)
原:
音読み:ゲン
訓読み:はら、たず(ねる)、もと、ゆる(す)
漢字が大陸から伝来して、借用文字として使われる以前、日本に文字は無かったのかというと、神代文字とか、ヲシテ文字とか、いろいろあったとかなかったとか、さすがにそのころの文献で江古田が登場するのかは解らない。
漢字の江(訓)、古(音)、田(訓)、原(訓)、と音訓交えての読みは「えこたはら」と一つも濁りようがないのである。
ただ、これはあくまでも漢字の読み(文語)の話しで、話し言葉(口語)は連濁を起こして濁ることが多々あるわけです。
連濁:
二語が結合して一語になるとき、後部の先頭が清音から濁音に変化すること。
数学的に考えれば、
えこ+た=えこだ
え+こた=えごた
え+こだ=えごだ
ということなのだろうか。
物事には例外があって、必ず連濁が起こるわけでもない。
前部の末尾が濁音だと連濁は起こりにくい。
えご+た=えごた
後部に濁音が含まれると連濁は起こりにくい。
え+こだ=えこだ
えこ+だ=えこだ
とはいっても例外で連濁を起こすことはある。
えご+た=えごだ
えこ+だ=えごだ
えご+だ=えごだ
漢字の読みに濁音が含まれていないことから、連濁していると考えるのが一般的だろう。
つまり、ここではどれの可能性が高いとか低いとかを論ずることは難しいと考えるに至りました。
これを踏まえ、話し言葉(口語)として、「えこた」、「えごた」、「えこだ」、「えごだ」、…、何だったのかまでは解らないが、漢字が大陸から渡来して、話し言葉(口語)から書き言葉(文語)の漢字として江古田を割り当てたと考えるに居たる。
簡単に言えば当て字です。
現代においても、「アイラブユー」を「愛羅武勇」といった漢字を当てるのと、何ら変わりがないと考える。
つまり、漢字を当てた人の、意図、思惑、背景、語呂、かっこいいなど、理由までは想像する他ありません。
よく、作者の意図を答えるような問題がありますが、あれは出題者が考える作者の意図であって、本当の作者の意図ではない。ということです。
では、漢字は違ったとしても、江古田に似たような地名を探してみると、
神奈川県横浜市青葉区荏子田(えこだ)
千葉県市原市江子田(えごだ)
が見つかる。
神奈川県横浜市青葉区荏子田(えこだ)について調べると、
新編武蔵風土記稿の石川村の小名に枝子田の記録がある。とされている。
その記述の書き出しておく。
石川村
石川村ハ郡ノ北ニアリ古ハ小机庄ナリシカ今ハ唱エス江戸日本橋ヘハ七里ノ行程ナリ當村南ヨリ北ヘカゝリテ山多クスヘテ土地平カナラス土性ハ眞土ヘナ土交レリ水田多ク陸田少ナシ村ノ廣サハ東西ヘ一里餘リ南北モ十八丁ハカリ四隣東ノ方ハ橘樹郡有馬土橋ノ兩村ニ界ヒ西ハ王禪寺村ニテ南ハ大塲黑須田又鐡三村ニモツゝケリ北ハ橘樹郡下菅生村ニテ巽ノ方ハ荏田村ノ地ニ隣レリ家數スヘテ二百六十七軒當所小田原北條分國ノ頃ハ小机石川郷八十四貫九百二十七文吉田トソノ分限帳ニアリ御入國ノ後崇源院殿ノ御化粧料ニテ大久保石見守長安預リ奉リ貢税ハ酒井讃岐守忠勝ヘ納メシトソ寛永九年隣村王禪寺村トゝモニ増上寺ノ御靈屋料トナリ撿地ハ寛永九年ニアリシト云用水ハ谷々ヨリ出ル清水合シテ一條ノ流レトナリ小川ヲナセリ村内ヲフルコト一里ハカリニシテ荏田村ニイル
高礼塲 村ノ中央ニアリ
小名 保木 村ノ西ヨリニアリ以下三ケ所モ同邊ナリ
牛込 平川 船頭 枝子田 同シク西ノ方ヲ云コノ邊ニ穴アリ廣サ二間半四方ハカリニシテ昔ハ人モスミシサマナリ
国立国会図書館デジタルデータ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763987
コマ番号105/132
まずこの文章、濁音符が無いことに気がつくことだろう。
昔の書物は話し言葉(口語)で濁音だからといっても、書き言葉(文語)で濁音符を付ける決まりはなかったのです。
つまり、数学的に言い表すと、
文語:「えこだ」、「えごた」、「えごだ」→口語:「えこだ」、「えごた」、「えごだ」
文語:「えこた」→口語:「えこた?」、「えこだ?」、「えごた?」、「えごだ?」
時代背景として、寛永九年は1632年です。
石川村には枝子田という小名があったことまでは解るのだが、その枝子田が何と呼ばれていたかまでは解らないし、もし読み仮名があったとしても、本文同様に濁点符が書かれていないだろうから、当時の読みまでは解らない。
ただ言えることは、神奈川の荏子田は現在では「えこだ/エコダ/ekoda」と呼ばれているという事実です。
日本郵便
https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=14&city=1141170&id=51083
続いて、千葉県市原市江子田(えごだ)について調べてみると、
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、石川村・米沢村・真ヶ谷村・安久谷村・原田村・江子田村・奥野村・堀越村・宿村・島田村・市場村・水沢村が合併し千葉県市原郡内田村となる。
慶応4年7月2日(1868年8月19日)、請西藩領、岩槻藩領、与力給知の全域、幕府・旗本領の大部分(内田江子田村、内田安久谷村、内田大西村、内田腰巻村、内田真福寺村、内田真ヶ谷村、原田村、土宇村、下野村、立野村、久保村、山田橋村の全域、八幡村、滝ノ口村〔滝口村〕、新井村、皆吉村、瀬又村の各一部を除く)、鶴牧藩領の大部分(山倉村、五井村、君塚村、今富村を除く)、佐貫藩領の一部(磯谷村)、西大平藩領の一部(現市原市高滝の方の宮原村)が安房上総知県事の管轄となる。また、以降の藩の設置にはすべて旧寺社領、寺社除地も含む。
江子田村が存在し、それが現在まで地名として残っており、江子田は「えごだ/エゴダ/egoda」と呼ばれているという事実です。
日本郵便
https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=12&city=1122190&id=43824
また、小湊バスの牛久駅-大多喜車庫には、江子田付近に江古田というバス停がある。
先のGoogleマップの秋葉神社のあたりですから、江子田に囲まれていて、江子田には含まれていないように感じる。
漢字が江古田になっているのも、小湊鐵道の勘違いなのだろうか?
さて、本丸の中野区の江古田、練馬区の江古田の歴史を紐解いてみる。
新編武蔵風土記稿で江古田村を探す。
新編武蔵風土記稿巻之一百二十四
多磨郡之三十六
野方領江古田 村
江古田村ハ東ノ方豐島郡ノ界ニアリ鄕庄ノ唱ヲ失フ江戸日本橋ヨリ行程三里村名ノ起リヲ詳ニセス鎌倉大草紙ニ文明八年四月太田道灌上杉刑部少輔千葉自胤等江古田原沼袋ト云所ニ馳向フトミユサアレハ古キ地名ナルコトシルヘシ猶下ニ錄スル所古戰塲ノ條下ヲ合セミルヘシ又小田原北條家人所領役帳ニ太田新六郎知行當所五貫文寄子恒岡越後守配當ノ分ト見エタリコノ越後守ハ永禄九年上総國三船臺ノ合戰ニ太田源五郎氏資ト共ニ討死シケルニ寶子ナケレハカレカ弟ノ僧泰翁禪師ト號シテ其頃埼玉郡平林寺ニ住職シ在ケルカ家名斷絶スヘケレハ沙門ノ事ナレト越後守カ一跡相続ノコト下知ニ任スヘキヨシ申ツカハシケル文書ヲ蔵セシカ彼寺寛文年中新座郡野火留村ニ轉移シテ今モ蔵セリト云村ノ廣サ東西十五町南北ハワツカニ其半󠄁ニ至レリ南ハ沼袋村ニトナリ東ヨリ北ヘハ豐島郡葛ケ谷長崎中荒井ノ三村ニ接シ西ハ上鷺ノ宮及ヒ豐島郡中村ニツゝケリ村内平ニシテ水田ハ村ノ中央ニアリ民家百十軒東北ノ方ニ住ス土性ハ野土ニテ眞土交ハレリ村ノ中ホトニ一條ノ道アリ西ノ方上鷺ノ宮村ヨリ東ノ方豐島郡葛ケ谷村ヘ達ス是往古ノ街道ノ名残ナリトイフ其幅ハ二間餘アリ今石神井村ヨリ江戸エ通フ道是ナリ村ニカゝルコト二十二町許當村撿地ハ天正十九年九月伊藤小右衛門沼上伊豫封四郎右衛門池上作蔵等糺シテ伊賀ノ者ニ賜フト云此頃ハ民家モ漸ク十軒許アリシトソ正保ノ頃ノモノニハ野村彦太夫為重及ヒ植村五郎左衛門村越清二郎小林長五郎知行トアリ寛文四年辰年ノ撿地ハ則野村彦太夫カウケタマハリニテ又元禄九子年細井九左衛門タタセリ其後御代官シハシハ遷代アリテ今ハ小野田三郎右衛門カ支配所ト伊賀ノ者ノ給地ト入會テアリ
国立国会図書館デジタルデータ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763995
コマ番号35/121
江古田にエコタとルビが振ってあった。
当然、濁音符が無いので、当時の読みまでは解りようがない。
時代背景として、文明八年は1476年、永禄九年は1566年、寛文四年は1664年、元禄九年は1696年です。
とりあえず、旧漢字は新漢字に、濁音符や句読点や読み仮名を振って、文語調で読んでみると、
江古田村は東の方の豊島郡の界(さかい)にあり、郷庄(庄郷の可能性もある)の唱(となえ)を失う。
江戸日本橋より行程三里。
村名の起(おこ)りを詳(つまびらか)にせず。
鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)に文明八年四月、太田道灌(おおたどうかん)、上杉刑部少輔(うえすぎぎょうぶしょうゆう)、千葉自胤(ちばよりたね)等、江古田原沼袋と言う所に馳向(はせむか)うと見(み)ゆざれば、古(ふる)き地名なること知(し)るべし。
新編武蔵風土記稿が発行された明治17年6月の時点で、江古田村の村名の起こりは詳しくは解らないということです。
千葉自胤が登場するのだが、この辺も押さえておくべきだろうか。
ウィキペディアによると、
享徳の乱で古河公方足利成氏に与した重臣原胤房と同族の馬加康胤に伯父の胤直、従兄の胤宣、父の胤賢ら一族を殺され、兄の実胤と共に下総八幡荘市河城へと逃れた。
とある。
千葉県の由来が千葉氏であることは察しがつくのだが、下総八幡荘市河城は現在の市原市の北部にあったとされます。
江子田も市原市の中央あたりにあるが、何らかの関係があるのだろうか。
偶然の一致なのか?
まさかとは思うが、江古田でやられたから、下総の地に逃れて江子田と名付けたとか?
同様に練馬区を調べる。
上練馬村
上練馬村ハ松川庄ト唱フ相傅往昔此地原野ナリシ頃篠某ト云浪士來リ住ミノ牧塲ノ馬ヲ盗ミ來リコゝニテ調練シ他ニ鬻ク事ヲ業トシ後浪游ノ士ヲ呼集メ此地ヲ開墾スヨリテ練馬ノ名起コレリト云其馬ヲ調練セシ地ハ今ノ下練馬村金前並木ノアタリナリト云傅フ北條役帳ニ中村平次左衛門三十八貫六百八十文江戸練馬豐前方及ヒ金曾木百貫文江戸練間島津孫四郎十四貫文豐島之内清光寺分練間ニモ有之志村ニモ有之ト見ユ正保ノ改ニハ上下二村トス日本橋ヨリ四里戸𢿙四百八十軒東ハ下練馬村西ハ下谷原村南ハ中村北ハ上下赤塚ノ二村ナリ東西南北各二十五丁許用水ハ石神井川ヲ引沃ケリ此地蕪蘿蔔ヲ名産トス當村ニ多磨郡青梅ヘノ間道係レリ御入國以來御料所ナリ撿地ハ寛永十六年永田八兵衛宇野八郎兵衛高橋與左衛門延寶元年中川八郎左衛門竹村與兵衛糺セリ其後寶暦十一年伊奈半左衛門新田ヲ改ム
国立国会図書館デジタルデータ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763977
コマ番号48/107
下練馬村
下練馬村ハ庄名及用水等前村ニ同シ日本橋ヨリ三里許民戸四百二十六東ハ上板橋村西ハ上練馬村南ハ中荒井村北ハ徳丸本村及脇村ナリ東西二十八丁南北一里程コゝモ蘿蔔ヲ名産トス當所ハ河越道中ノ馬次ニシテ上板橋村ヘ二十六丁新座郡下白子村ヘ一里十町ヲ繼送レリ道幅五間此道ヨリ北ニ分ルゝ道ハ下板橋宿ヘ達シ南ヘ折ルレハ相州大山道ヘノ往來ナリ御打入以來御料所ニテ今モ然リ撿地ハ延寶元年十一月竹村與兵衛中川八郎左衛門改メ其後開キシ新田ハ寶暦十一年伊奈半左衛門改ム
国立国会図書館デジタルデータ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763977
コマ番号49/107
時代背景として、延宝元年は1673年、宝暦十一年は1761年です。
上練馬村、下練馬村はそれぞれ、南に中荒井村、中村が接しており、江古田村は更に南にあるということが解る。
また、上練馬村、下練馬村のどちらの村にも新田の記述があるが、これが江古田村の新田かは定かではない。
因みに蘿蔔を名産とするとあるが、蘿蔔(すずしろ)とは大根のことです。
このころ既に練馬=大根だったのですね。
地元ながら、大根すげーな。
今は、大根はほとんど生産されておりません。
近くの畑は、キャベツ、ブロッコリー、長ネギなどが多いですよ。
また、練馬ではなく、練間という表記も見られ、明治の書物にも、漢字の間違いはあったんですね。
まぁ、間違い、勘違いはいつの時代もありますよね。
さらに地理的にアプローチしてみます。
江古田に似た地名を国土地理院のページで探し、現在地名として残っており、読みが解るもの連濁を確認してみる。
◯古田:
伊古田
埼玉県秩父市伊古田(いこた)
稲古田
千葉県八街市稲古田(いなこだ)
小古田
奈良県五條市西吉野町小古田(おぶるた)
佐古田
岡山県赤磐市北佐古田(きたさこだ)
岡山県赤磐市南佐古田(みなみさこだ)
多古田
千葉県匝瑳市飯塚多古田(たこだ)
仁古田
長野県上田市仁古田(にこだ)
茨城県笠間市仁古田(にこだ)
◯子田:
砂子田
秋田県横手市雄物川町砂子田(すなごた)
秋田県能代市常盤字砂子田(すなこだ)
岩手県紫波郡矢巾町砂子田(すなごだ)
岩手県一関市藤沢町砂子田(すなごた)
岩手県陸前高田市横田町砂子田(すなごた)
岩手県奥州市江刺藤里砂子田(すなこた/すなこだ)
宮城県遠田郡美里町字砂子田(すなこだ)
宮城県栗原市栗駒片子沢砂子田(すなこだ)
宮城県栗原市築館下宮野砂子田(いさごだ)
宮城県栗原市一迫嶋躰砂子田(すなこだ)
宮城県栗原市一迫清水目砂子田(すなごだ)
福島県喜多方市山都町一ノ木砂子田乙(すなこだ)
福島県福島市下鳥渡砂子田(すなごた)
福島県福島市下鳥渡上砂子田(かみすなごた)
福島県福島市下鳥渡砂子田北(すなごたきた)
福島県相馬市中村砂子田(ゆなごた)
山形県南陽市宮内砂子田(すなこだ)
富山県富山市婦中町砂子田(すなごだ)
福井県福井市砂子田町(すなごだちょう)
島根県出雲市浜町砂子田(すなごだ)
広島県広島市安佐北区砂子田(すなこだ)
団子田
福島県福島市大森団子田(だんごだ)
上鳥渡団子田(だんごた)
上鳥渡団子田前(だんごたまえ)
上鳥渡団子田東(だんごだひがし)
京都府京都市右京区西京極徳大寺団子田町(だんごでんちょう)
京都府京都市右京区西京極徳大寺西団子田町(にしだんごでんちょう)
猪子田
新潟県上越市浦川原区上猪子田(かみいのこだ)
新潟県上越市浦川原区中猪子田(なかいのこだ)
新潟県上越市浦川原区下猪子田(しもいのこだ)
神子田
岩手県盛岡市神子田町(みこだちょう)
袖子田
岩手県二戸郡一戸町中里袖子田(そでこだ)
森子田
宮城県仙台市泉区実沢森子田(もりこだ)
根子田
福島県田村市常葉町早稲川根子田(ねこた)
山子田
群馬県北群馬郡榛東村山子田(やまこだ)
新子田
長野県佐久市新子田(あらこだ)
天子田
愛知県名古屋市守山区天子田(あまこだ)
丁子田
愛知県長久手市丁子田(ちょうしだ)
鹿ノ子田
愛知県知多郡武豊町鹿ノ子田(かんこだ)
狗子田
京都府京都市左京区下鴨狗子田町(しもがもいのこだちょう)
太子田
大阪府大東市太子田(たしでん)
茄子田
奈良県吉野郡吉野町左曽茄子田(なすびだ)
鹿児島県鹿児島市花尾町茄子田(なすびた)
赤子田
鳥取県鳥取市赤子田(あこだ)
師子田
広島県世羅郡世羅町
種子田
宮崎県小林市北西方種子田(たねだ)
宮崎県小林市北西方西種子田(にしたねだ)
鹿児島県薩摩郡さつま町柏原種子田(たねだ)
村子田
鹿児島県薩摩川内市村子田(むらこだ)
割子田
鹿児島県霧島市福山町佳例川割子田(わりこだ)
戸子田
鹿児島県薩摩郡さつま町求名戸子田(とこだ)
江古田に限らず、「◯こた」、「◯こだ」、「◯ごた」、「◯ごだ」の連濁の揺れが確認出来る。
砂子田が全国的にあって、地理的に偏りがあれば、何らかの切り分けにはなったかもしれないが、どちらかというと同県においても連濁で揺れているので、方言といったような区分は出来そうもないですね。
さらに田の字のみに焦点を当てて考えてみる。
田んぼで連想するものは、稲や米ですよね。
稲
音読み:トウ
訓読み:いな、いね
米
音読み:ベイ、マイ、メ
訓読み:こめ、よね、メートル
「いね」と「よね」を並べると、妙に似ていますよね。
稲も米も、元となった話し言葉(口語)は同じだったのではなかろうか?
稲も米も名詞だが、もともとは動詞や形容詞のような活用があったのではなかろうか?
つまり転成名詞なのではなかろうか?
稲の「い」は「あ行」じゃなくて「や行」だったのではなかろうか?
などと考えていると、
江古田の江も「あ行」じゃなくて「や行」や「わ行」、はたまた「は行」だったのではなかろうか?
に至った。
国土地理院の地図で、◯田となるような地名の件数を確認してみると、
東西南北は、
東田:142件
西田:236件
南田:130件
北田:146件
西田だけが少し多いが、誤差の範疇かな?
それとも太陽は東から上って西に沈む。
なんらかの基準、例えば村の中心からみて、西側に田んぼがあることが重要だったのだろうか。
大小は、
大田:354件
小田:808件
倍近く小田が多いのは、日本の地形では大きな田んぼは作りにくかったのだろうか。
多少は、
多田:184件
少田:1件
少田とは付けたくない理由があったのでしょうか。
田んぼが少ないというのは、石高が少ないということですから、命名したくはないでしょうね。
新古、上下、前後、左右、中は、
新田:3266件
古田:150件
上田:406件
下田:428件
前田:614件
後田:78件
右田:17件
左田:1件
中田:381件
新田が多いのは、開拓、開墾しまくったからかな?
右田、左田がやけに少ない。
一つ忘れていますね。
横田:192件
もし、江古田の江がや行え段ならば、横田から転じた、もしくは横田に転じた、もしくは元の話し言葉(口語)が同じとも考えるに至る。
あ行え段:え、エ、e
や行え段:𛀁、𛀀、ye、je
わ行え段、ゑ、ヱ、we
は行え段、へ、ヘ、fe、he
他にも現代ではほとんど消えてしまった仮名があります。
蕎麦屋やうなぎ屋などの暖簾ではよく見かける、現代人にはなかなか読めない変体仮名です。
あ行え段、や行え段、わ行え段、は行え段、これらに割り当てられた変体仮名の元となった漢字(元字)を考えてみる。
さすれば江古田は江を割り当てたなんらかの理由が見えてくるのではなかろうか?
や行え段の「𛀁」の元字は、まさしく「江」である。
これを踏まえると、江古田は、「yekota」、「yekoda」、「yegota」、「yegoda」と書いたほうが現代の人には読みやすく解りやすいかもしれない。
実は、あ行え段、や行え段、この2つはかなり曖昧な関係である。
ひらがなの「え」の元字は「衣」の草書体、カタカナの「エ」の元字は「江」の旁
ひらがなの「𛀁」の元字は「江」の草書体、カタカナの「𛀀」の元字は「衣」の1~3画
と元字がテレコになってしまっています。
因みに
ひらがなの「ゑ」の元字は「恵」の草書体、カタカナの「ヱ」の元字も「恵」の変形
と同じ漢字からというのが一般的なのでしょう。
つまり、あ行え段とや行え段は、それくらい曖昧だったということが解ります。
例として、
円とYEN
恵比寿駅とヱビスビールとYEBISU
外国人が当時の日本人の発音を英語表記する際に外国人が日本語らしく発音するためにYEとしたとも考えられるし、実際に日本人がYEと発音していた可能性も否めない。
江戸時代から明治にかけての話しなので、わ行え段も混ざってしまっていますね。
また、花輪などに「◯◯さんヘ」と書く場合に「へ」の代わりに用いられる変体仮名が「𛀁」、漢字の「江」であることも周知の事実である。
書き言葉(文語)は、や行え段の「𛀁」なのに、
話し言葉(口語)は、は行え段の「へ」というのも、
混乱しているのか、何かの縁起担ぎなのか。
江古田や荏子田の名前の説として広く多く登場するエゴノキ説。
田んぼのあぜ道にエゴノキが群生しておりとか、植えられておりとか、
開拓前にエゴノキが群生しておりとか、
大抵はこんな感じで書かれている。
江古田の地名は古くからあることは解っているのに、エゴノキを表す漢字が調べても調べても見つからない。
「斉墩果」を見つけても、オリーブの意味で誤用だとなる。
古い資料に「江古ノ木」とか「荏子ノ木」とか、当て字でも見つかれば、もう少し信憑性も高まるのにと思ってしまう。
「えごのき」を検索をかけていると「ゑごのき」がヒットする。
これは。わ行え段の「ゑ」であり、元となった漢字は「恵」である。
発音は「wekota」、「wekoda」、「wegota」、「wegoda」に近かったのだろうか?
えぐるという動詞の元となったえぐれた地形を表す「えこ」、えこ・えぐる説
えぐるも「ゑぐる」でわ行え段の発音と考えられる。
ただし現在では、刳る、剔る、抉る、という動詞の漢字がある。
国土地理院の地図で、刳、剔、抉でそれぞれ検索してみたが、いずれも0件であったので、地名として現存はしていない。
動詞の「えぐる」の意味としては、
1) 刃物等を突き刺し、ぐるりと回してくり抜く。
2) 人の心に激しい苦痛・動揺などを与える。
3) 真相を明らかにしようとして容赦なく追及する。
味覚の「えぐい」も同じ漢字を使うので、2)の意味でしょうね。
エゴノキの名前の由来は、味覚の「えぐい」からきているとのこと。
動詞のえぐる→形容詞のえぐい→固有名詞のエゴノキ
固有名詞のエゴノキ→形容詞のえぐい→動詞のえぐる
どちらかだろうか。
さて、えぐれた地形を表す、えこ説でもう一つ気になることがある。
「えこ」は、あ行え段の「え」ではなく、は行え段の「へ」で、「へこ」ではなかろうか。
なぜそう思うに至ったかというと、漢字の凹む(へこむ)である。
凹むは減り混むの短縮形という説がある。
「減り混む」と書いて、「へりこむ」と読みますか?
「めりこむ」とも読めますよね。
凹
音読み:オウ
訓読み:くぼ(む)、へこ(ます)、へこ(む)
対義語として、
凸
音読み:トツ
訓読み:でこ
なぜ、凸の訓読みに動詞が一つも無いのか?
も(る)とか(盛る)、つ(む)とか(積む)、あっても良さそうなのだが。
でこ←対義語→ぼこ
と凹の訓読みが1つ増える。と考えたが、実は凸の訓読みは存在しないのではなかろうか。
凹凸:オウトツと音読み
凸凹:でこぼこと訓読み
とできるのだが、あくまでも熟語として存在しているのではなかろうか。
凹に「ぼこ」という訓読みがあって然りだが無いので、凸も無いと考えるのか。
現代で残っているとすると、額(ひたい)を、おでこ、でこっぱち、などと呼ぶことがあるくらいではなかろうか。
新説で、凹田説とでもしましょうか。
凹田という地名は確認出来ないが、
「へこくら」という地名が存在することが解った。
岡山県苫田郡鏡野町岩屋 へこくら橋
岡山県苫田郡鏡野町 へこくら淵
もしかすると、凹倉、凹蔵、といった漢字だったかもしれません。
凹む、窪む、くぼ(む)から、
「くぼた」と読めば、窪田、久保田、などが考えられる。
へこ(む)から、
「へこた」と読めば、江古田、荏子田、枝子田、江子田とならないだろうか?
さて、今の所解っている、江古田の地名の最も古いのは、平安時代の江古田原です。
結構情報が出揃ってきてはいるので、一旦まとめてみる。
江:「え/エ/e」、「𛀁/𛀀/ye/je」、「ゑ/ヱ/we」、「へ/ヘ/fe/he」
古:「こ/コ/ko」、「ご/ゴ/go」
田:「た/タ/ta」、「だ/ダ/da」
原:「はら/ハラ/hara」、「ばら/バラ/bara」、「ばる/バル/baru」、「わら/ワラ/wara」、「っぱら/ッッパラ/ppara」
江古田原の読みの可能性は、いまのところ
4×2×2×5=80通り
となりました。
名前の由来を推察するに、
江古田・沼袋の戦い
まさかとは思うが田んぼの上で合戦はしないと私は考えた。
なぜなら、水田にしても、陸田にしても、ぬかるんだ土、柔らかい土に足を取られ、合戦どころではない。
江古田原は、田んぼではなく、文字通り原っぱ、原野だったことになる。
これを仮定とすると、
江古田村の村民は、北東方面に向かって江古田新田を開拓している。
しかし江古田村から北西方面の江古田原は、江古田と付くのに原のままなのか?
田んぼには向かない土地だったのだろうか?
中村、中荒井村があったから、開拓に踏み込めなかったのだろうか?
巨大な練馬村には踏み込めたのに、小さな中新井村には踏み込めないのだろうか?
江古田原が先か、江古田村が先か、
江古田という地名はどこから付いたのか。
漢字の通り古い田んぼに入江があったのか、
えぐれた地を田んぼにしたのか、
そもそも田んぼなんて無かったのか、
江古田の近くにあった原っぱだから江古田原なのか、
江古田は当て字で、漢字の持つ意味をあてにしてはいけないのか、
例えば、自分の地元の大泉は、大泉村と命名される前の候補として、
小榑村、上土支田村、橋戸村の三村が合併するので、それぞれの村名の漢字を1文字ずつ拝借して、戸榑田村にしようとしたが、一番大きな榑橋村が2番目の文字なのが気に入らないと却下されたりしている。そのちょっと前に新座郡にあった小榑村と橋戸村が先に合併していて、榑橋村となっている。
これにあやかって、江古田村は、江村、古村、田村の三村が合併して江古田村となるといった、三村合併説とか。
例えば、三原台という地名があるが、これは3つの原が付く地名(小名)、北原、中原、西原、から名付けられたという説がある。
これにあやかって、江原村、古原村、田原村とか、合併前の村名はもっと自由に考えられる。
そもそも、中村とか中荒井村(中新井村)とか、自分たちの村が中心のように村名を付けているのはなんでだろうか。
ちょっとそれてしまいましたね。
私は、少数意見だから間違いというようなことはしません。
当然、多数意見だから正しいというようなこともしません。
紙に資料として残っているからとって、それらがすべて正しいともしません。
誤字脱字もあるし、著者の思想やプロパガンダもあります。
言葉は生き物です。
時代とともに変化して然りです。
ましてや日本人は言葉遊びが超が付くほど大好きな民族であり、
私もそのうちの一人です。
安直に結論を急ぐ必要はないでしょう。
議論はいくらでもしてもいいけど、喧嘩はしないでね。
永遠に答えが出ないのも、思う存分楽しめばいいんだよね。
仮説、新説、どんと来いですよ。
タイムマシンで過去に遡って、同じ時間軸の元の時代に戻って来れるならば、真実とやらが解明されるかもしれませんね。
いくら理系男子でも、私にはタイムマシンは作れませんので、あしからず。
ではでは
PS:
やっと書き終わった。
随分前から書きたかった記事だったのが、やっと本腰を入れて、なんとかかんとか書き上がりました。
ただ単に、風呂敷を広げただけとも言えなくもないですね。
江古田は「えこだ」「えごた」? 西武と都営で異なる駅名の読み、なぜそうなった
https://trafficnews.jp/post/86748
という記事に触発されたとも言えます。
書いてあることが中途半端だと感じたんです。
まぁ、自分の記事も中途半端ですけどね。
PS:
ネットには自由に閲覧出来る古地図が存在する。
江古田を探せ!
地元を探せ!
武蔵國輿地全圖 天保14年(1843年)
http://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/pages/WC-1_21.html?l=1&n=0
江古田が見つからない。
地元の大泉村の合併前、土支田村、橋戸村(ハシ戸)は見つかるのだが、小榑村が見つからない。
地元なので、下保谷村、中沢村、野寺村(野𛁆←寺の変体仮名)、石神村(石カミ)、堀内村(ホリ内)、栗原村(栗ハラ)、中沢村など、解る地名を消去していくと、(小拾)というのが残る。
これが小榑村なのだろうか。誤字もいいところだな。
察するに、原版は(小クレ)と書いてあったのかもしれないが、それを読み間違えたのか?
武蔵国全図 安政3年(1856年)
https://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/d_conts/ezu/syosai/ezu007.html
江古田が川を挟んで2つあります。
ウィキペディアの武蔵国のページにも、同じ地図があります。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/1856_Japanese_Edo_Period_Woodblock_Map_of_Musashi_Kuni_%28Tokyo_or_Edo_Province%29_-_Geographicus_-_MusashiKuni-japanese-1856.jpg
富士見十三州輿地全図 天保13年(1842年)
http://www.kotizu.com/map01
江古田村、神奈川の荏子田の元となった枝子田村を吸収した石川村、千葉県の江子田を探してみましょう。
ではでは