自作パソコンとかって言うけど、それって組み立ててるだけじゃないの?
という疑問がある。
確かにその通りである。
自作CPU、これは納得するが、こんなことを出来る人間は世界に数えられるほどしか居ないのではなかろうか。
自作パソコン、これは納得できないというか違和感がある。
例えば、私はパソコンの修理屋だったけど、このような言葉尻で言えば、実際に修理してたのだろうか?
という疑問が残る。
ユニットレベルでのパーツの交換でパソコンを動くようにするのが、昨今のパソコンの修理である。
つまり、交換対象の物が一昔前よりも大きくなっている。
ユニット単位での交換は修理と言えるだろうか。
ユニットの交換しか出来ないエンジニアを揶揄してチェンジニアと呼んでいました。
「このユニットを交換したら症状が改善されたので、このユニットが不良なのでしょう。」
というのと、
「こういう症状なので、こういう理由でこのユニットが不良だと考えられ、このユニットを交換します。」
というのでは、相手に与える印象がだいぶ違います。
ただ、前者が全てにおいて悪いわけではなく、どこが悪いかわからないような症状の場合は、アプローチの結果、こういう言い方にならざるを得ない場合もあります。
昨今のユニット交換レベルでの修理は、修理部品選択や搬出の手間、修理時間の短縮、エンジニアの育成に掛る時間や費用、といった様々な面からこのような状況になっている。
一昔前のように、テスターで電圧をチェックして、半田鏝を使って抵抗やコンデンサといった部品単位で交換するような時代の修理と、
昨今の、ユニット単位、製品単位で交換するような時代の修理では、
同じ修理という単語を使っていても、違和感はあるでしょうが、自作パソコンほどの違和感はないと思う自分が居ます。
なぜかというと、世間一般的にパソコンが壊れたから修理に出すというような表現をするからだと思う。
それは、修理して貰う側からしたら、あまり意味がないからだろう。
同様に、自作アプリというのは、どこまでが自作なのか。
どっかからライブラリを拾ってきて、それを使ったら、自作アプリなのか。
自作という単語の対義語は他作であろう。
他作の部位が多いと、それはもう自作と呼べるのだろうか。
種から木を育てて、その木で何かを作ったら、
砂鉄を鉄鉱石を取ってきて、製鉄して、鉄で何かを作ったら、
砂を取ってきて、珪砂を篩にかけて、溶かして、ガラスで何かを作ったら、
ここまでやれば、さすがに自作だろうけど、そこまでやってないと自作とは呼べないのか。
どこまでが自作で、どこからが自作でないのか、線引は難しいし、個々に線が引かれるところも変わってくるだろう。
ただ、自作はおこがましいから、自組とでもしましょうか。
自組パソコン、これなら十分に納得できる。
ただ、世間一般的な認識として、自作パソコンの対極はメーカーパソコンだと思う。
これは他人に強要することでもないのだが、私のようにおこがましいという考えの人が増えれば、自作パソコンという言葉が使われることもは減るのだろうか。
名は体を表さないようなものが増えるのは、嫌だなぁ。
やっぱり名は体を表すべきだろう。
ではでは
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自作パソコンという言葉はおこがましい
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